一部再掲載目次

「房子ラプソディ」は房子さんご自身からの聞き書きを基に、ヤムヤム編集室が文章化し、時代背景等を交えながら、2月中旬から5月下旬まで順次掲載してきたものです。

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『ふさこラプソディ』製本版が出来上がったのを機に、ウエブ上の掲載を終了いたしましたが、
今回、一部分だけ再掲載することになりました。

房子さんの、やさしい眼差しを通して見える昭和という時代を、皆様にも楽しんでいただければと思います。


(目次
赤字項目を公開しました。)

はじめに -「いとこ会」昭和63年1月2日 

第1部 「福島の思い出」 大正9年~昭和8年
  1-1 私の祖父・遠藤保明
  1-2 私の父と母
   母・美雪(みゆき)/父・松(まつ)
  1-3 季節の中で
    スミレ写真館(春)/‘木綿のニコニコ’と‘ダルマさん’
    イナゴ取り(秋)/下駄スケート(冬)/ 水浴びと大きなおにぎり(夏)
  1-4 お菓子の注文とりと髪結いさん

第2部  福島から満州へ 昭和8年12月~12年3月
  2-1 祝砲(8年12月23日)
  2-2 撫順高等女学校(9年) 
  仮装大会(10年2月)/スケート大会(11年)/撫順の冬とお汁粉/ 
  撫順城への遠足(9年~11年)/英語劇ベニスの商人(11年)
 2-3  撫順女学校の寄宿舎(9年~12年)
   
第3部  「ラプソディ」  東京で 昭和12年4月~15年3月
  3-1 私の夢
  3-2 恵まれた環境の中で
    実践女子専門学校/江戸褄(14年秋)/野球観戦(14年)
    水色の袴/口紅(クラブ化粧品)/パーマネント(14年)
3-3  迫る統制の足音

第4部   「きらめき」  昭和12年7月~15年
  4-1 出会い(12年7月)
    出会い/ミカンの缶詰20個/初めての手紙とチョコレート
  4-2 ターニングポイント(昭和12年夏)
    父(松)の決心/文通
  4-3 デート(昭和14年暮れ~15年2月)
    傷痍軍人さんとのデート/外出許可手帳
  4-4 プロポーズ(昭和15年)

第5部   「いきるすべ」 満州で 昭和15年4月~21年6月
5-1 結婚(16年4月)
  5-2 忠節の誕生(17年 ) 
   5人分の名前/初節句(18年) 
 5-3 武勇の誕生(21年 ) 
 5-4 終戦時の撫順
    楊蔭会/終戦(20年8月15日)/暴動(8月30日・31日)/ソ連兵
    生きるすべ(20年10月~21年)/子供の誕生と死(21年) 

第6部   「家族」  東京で 昭和21年6月~
  6-1 満州から福島へ
  6-2 向島(寺島)の家(22年5月~25年2月)
    出産とリヤカー・質素の誕生(23年9月)/白髭橋病院での出産/ 
     母子手帳(23年)/配給の牛乳と出産祝賀菓子
  6-3 吾嬬町(八広)の家(26年2月~)
  誠子の誕生(26年)/幼稚園(29年)/銭湯/七五三の祝い(29年11月) 
  氷売りと冷蔵庫/テレビ/洗濯機/オリエンタル・サーカス/子どもたちの遊び 
  第三吾嬬小学校/バルボン
  6-4 福島の夏休み      
  6-5 生き物と子どもたち
    蟹/蛙の卵・カマキリの卵/タマとちび/カタツムリ/金魚/亀と雷魚/鈴虫

第7部 米寿からの出発 平成20年6月~

(ヤムヤム編集室)

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金魚

第六部 「家族」 昭和21年6月~
6-5 生き物と子どもたち 

☆金魚

松じいちゃんが、お煎餅の店をやめてからのこと。お煎餅のガラス瓶を水槽代わりにして、美雪ばあちゃんが金魚を飼い始めました。えさをあげたり水を替えたりして、世話をしていました。水は、水道のカルキを飛ばすため汲み置きをして、3日から1週間に1度変えていました。
ガラス瓶の水槽から四角の大き目の水槽に変わると、水槽の掃除をするのが大変でした。月に1度くらい、水を全部出して水槽の中をきれいに洗うのです。そんな様子をいつもそばで見ていた子どもたちは、おばあちゃんができなくなると、代わって、水槽の掃除や金魚の世話をするようになりました。

Dsc02590 ある日、子どもたちは、水槽の中の大きい金魚が変な動きをしているのに気づきました。よく見てみたら、その金魚は、水草に卵を産み付けていたのです。

『金魚の飼い方』の本に、「同じ水槽に卵を置いておくと、金魚に食べられてしまう」と書いてあるのを読んだ質素は、考えた末、イチゴのパック2つを組み合わせてセロテープで留め、その中に水と卵の付いた水草を入れて水槽の中におきました。
無事に卵からかえった稚魚はメダカくらいの大きさで、50匹くらいいました。

今度は、その稚魚を金ダライに移して育て始めました。卵からかえったばかりの稚魚は、腹部に付いている栄養で数日間は生きていられます。でも、それ以後の栄養補給をどうしようかと子どもたちは考えたのでしょう。
質素は、以前の「蛙の卵の失敗」の経験から、ミルクを入れたら死ぬことはわかっていました。でも、「何か栄養のあるものを食べさせなくては」と考えた末、今度は、赤い糸ミミズを金ダライの中の稚魚にやってみました。
ところが、金魚の稚魚は次々と死んでしまいました。

生き物の赤ちゃんを死なせてしまった経験は、生き物を育てることの難しさと命の大切さとを、子どもたちの心に深く刻んだようでした。

(制作補助ヤムヤム編集室)

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第三吾嬬小学校

第六部 「家族」 昭和21年6月~
6-3 吾嬬町の家

☆第三吾嬬小学校

家には、『科学の友』や『なぜだろう?なぜかしら?』という本が、束になってありました。『科学の友』は、カラーで、恐竜、宇宙など、少年の心をわくわくさせるようなことがいっぱい書いてありました。忠節をはじめ、子どもたちは夢中で読んでいました。
質素がいまでも覚えているのは、「太陽系がどうしてこういう形だってわかるのだろうと不思議だったこと」だそうです。
『なぜだろう?なぜかしら?』は、1年生用から6年生用まであって、質素の学年があがるごとに春一さんが買ってきてくれていたものです。エジプトのことなどに子どもたちは興味をもったようです。小学校高学年になった質素は、よく座敷の隅で壁により掛かって、布団をかぶって本を読んでいました。

そんな質素が、コンニャク稲荷の縁日で買ってきたものに、
樟脳で走る舟や、人間の体が透かして見えるという遠めがねがありました
樟脳で走る舟というのは、出店のその場でセルロイドの舟を作って、舟の後尾にベロをつけ、薄く伸ばした樟脳を挟んで、水に浮かべて走らせる舟です。
人間の体が透かして見える遠めがねというのは、これはインチキなおもちゃでしたが、子どもたちにとっては、知らない世界をのぞき込むようなおもしろさがあったのだろうと思います。

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写真は昭和30年、質素が小学校1年生の頃の第三吾嬬小学校の教室です。この頃、子どもの数が多くて、教室に入りきれないので、午前中の部と午後の部とに分かれて、2部授業が行われていました。



(制作補助ヤムヤム編集室)

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母子手帳(昭和23年)

第六部 「家族」 昭和21年6月~
6-2 向島(寺島)の家

☆母子手帳(23年)

質素が生まれた翌月10月に、「母子手帳」が渡されました。それまで、母子手帳はありませんでした。

Dsc02577_2 昭和22~23年頃は、まだ終戦後間もなくて暮らしは大変でしたが、家族が一緒に暮らせるようになり、ベビーブームとなりました。そんなこともあっての配慮だと思いますが、この頃から母子手帳の交付がされるようになりました。
母子手帳は、
妊娠がわかった時点で交付されるもので、出産前の妊婦記録欄がありました。でも、私の場合、出産後一週間を経てから渡されたので、出産前の記録欄も産後経過の記録欄も空白のままです。

でも、この母子手帳には、後半分のページに、配給物資記事欄や購入券などがついていました。当時は、まだ、物があまり手に入らないときでしたので、これがとても助かりました。ちなみに、質素の「母子手帳」の配給物資記事欄には次のような記録が残っていました。

          Dsc02579

 煮沸ガーゼ購入券交付
            妊(?)衣料購入券交付
 23年10月 5日                交付
    10月 5日  石鹸購入券交付
    11月 8日  食肉券交付
    12月18日  バター券交付
 24年 2月14日  ①交付済み
     3月31日  4月分乳製品配給済み
     5月14日  4月分砂糖スミ
     5月27日  6月分乳製品配給済み
     5月27日  5月分砂糖スミ
     6月13日  6月分砂糖スミ
     7月29日  8月分乳製品配給済み
     8月 9日   7月分砂糖配給済み
     8月 9日   8月分砂糖配給済み
     9月 3日   9月分乳製品配給済み
     10月10日   10月分乳製品配給済み
    11月 4日  11月分乳製品配給済み
 25年 1月13日   1月分乳製品配給済み

(制作補助ヤムヤム編集室)

豆知識↓

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子供の誕生と死(昭和21年)

第五部 「生きるすべ」 満州で(昭和15年4月~21年6月)
5-4 終戦時の撫順

☆誕生と死と

昭和二十一年一月十四日、男の双子を産みました。
三男武勇・四男信義、私はいっぺんに四人の子の母親になりました。二人の子供を生んだ私は、その後わずか半月の間に、二人の子供を失うことになりました。

03_2 出産から五日目の一月十八日、次男礼儀の栄養失調がなおらず、死んでしまいました。そして、それから十日目の一月二十八日、生まれたばかりの信儀も死にました。

でも、ずっとお医者様にかけていたのです。病院には薬がなくなりかけていたそうですし、抑えられた生活の中では仕方がなかったことなのでしょう・・・。

気が狂ってしまうのではないかと、父母親類中がとても心配したそうです。こんなとき、気の狂うほど思い切って泣けたらどんなに私自身なぐさめられたかわかりませんが、涙など出ませんでした。
長男と三男がいます。それも、栄養失調で今にも命の危ない長男と、未熟児の三男と・・・。

この二人は、どんなことをしてでも元気にして、父親の元に連れて帰らなければと夢中で育てました。
今この二人は三十三才と二十九才になり、お嫁さんをもらって幸せに元気で暮らしています。
今でも、始終一才半と半月で死んでいった二人の子供の夢を見て夜中に泣き出してしまいます。主人に声をかけられるときは、いつも枕が涙でびっしょりになっています。

ソ連軍が、八路軍に入れ替わり、また八路軍が国府軍に入れ替わり、そのたびごとに暴動・略奪と・・・
日本人は強いですね、よく耐えてきましたもの。

書きたいことはこの百倍もあります。でももういいのです。
引揚げてきたとき、二十一年七月十一日、私の主人は元気で私たちを迎えに来てくれました。今までの苦しみは何も彼も遠くへ遠くへ消えてゆきました。

(制作補助ヤムヤム編集室)

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終戦(昭和20年8月15日)

第五部 「生きるすべ」 満州で(昭和15年4月~21年6月)
5-4 終戦時の撫順

☆終戦(20年8月15日)

満州のやけつくような暑さの中、私たちは、突然に敗戦の詔勅を聞かされました。
そして、安堵と不安と不気味な静けさのうちに半月がすぎました。

八月末、撫順にソ連軍が進駐して来るという情報が入ってきました。
ソ連軍南下の情報は、チャムスでは・・・、ハルピンでは・・・、そして新京では・・・と、身の毛もよだつようなうわさを伴って伝わってきました。
私達撫順市内にいるものは家の回りをすっかり板で囲い、まっ暗になった家の中に閉じこもる生活を余儀なくされました。

01_2 夫が軍人であったことがわかれば、大変なことになります。
夫の持ち物は、親類中集まって相談のうえ、全部焼却されることになりました。夫の 記念の品々は、みんな灰になってしまいました。でも、名刀四振りと勲章は、どうしても処分しきれずに毛布にくるんで、地下防空壕のすみっこに絶対見つから ないようかくしたのです。


(制作補助ヤムヤム編集室)

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結婚(昭和16年4月)

第五部 「生きるすべ」 満州で(昭和15年4月~21年6月)

5-1 結婚(16年4月)

昭和15年3月に実践女子専門学校を卒業した私は、4月からチャムスに移り住みました。
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そこで、プロポーズをしたまま戦地に行ったっきりの春一さんを待つだけの日が続きました。

中等教員免許状授与式が15年7月に実践の大講堂で行われましが、私はこの時、北満州の国境に近い佳木期(チャムス)で、洗濯物を干していました。

いつまでたっても帰ってこない春一さんに、両親は撫順で一緒に住むように言ってきました。

昭和15年11月、撫順の両親の元へ移った私に、女学校の時の先生から、「中国の師範学校で裁縫と手芸を教えてほしい」という話が持ち込まれました。
私は「先生になろう!!」と決めました。先生になることは、私の小さい頃からの夢だったのですから。


ところが、決心をした矢先、まだ帰ってこないと思っていた春一さんが、戦地から帰ってきたのです。春一さんとの結婚が決まっていた私は、「1年や1年半だけの先生では、かえって相手に迷惑になる」と、その話を断りました。

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昭和16年4月に、私たちは結婚しました。私21歳、春一さんは29歳でした。
左の写真は、結婚式の2日前に、高島田を結って、友達と一緒に写したものです。


 

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当時、戦時下でしたので、春一さんは軍服に羽の着いた帽子をかぶり、私は江戸褄を着て結婚式を挙げました。

結婚した私たちは、公主嶺で新しい生活を始めました。でも、2人だけの生活は、春一さんの前線行きで、たったの6カ月間で終わってしまいました。

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(制作補助ヤムヤム編集室)

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迫る統制の足音

第三部 「ラプソディ」東京で 昭和12年4月~15年3月

3-3 迫る統制の足音


私が渋谷の実践女子で青春を満喫していたこの時期は、生活の細部にわたり、さまざまな戦時統制が強化され始めた時でした。

017s1 服装面では、女性のもんぺ常用が実施され、14年には、福島女子師範が「もんぺ」を制服に採用しました。またズボン折り返し禁止など服装制限方針を決定され、和服は元禄袖に、絹織物などは製造禁止品目になり、金糸銀糸も禁止になりました。
そして、昭和9年頃から広く普及しはじめたパーマネントも、13年にはパーマ業者の新設中止、14年には、国民精神総動員委員会がパーマ・学生の長髪禁止などを生活刷新案を決定します。

スポーツでは、昭和13年、文部省は六大学野球に「日本主義的野球道」を、15年には、野球連盟が英語使用禁止しました。
娯楽面では映画が国策推進に活用され、外国映画の輸入全面禁止、国策ニュースの強制上映などが行われ、16年には情報局、映画の国家統制に乗り出しました。

でも幸運にも、これらの統制は、いつも私の後ろから追いかけてくるだけで、この時代の私を捕まえることはできませんでした。後ろから迫る統制の足音を感じながらも、私は、恵まれた環境の中で、自由を満喫していました。

一方、私の去った満州は、昭和12年7月の芦溝橋事件から日華事変、そして日中事変へと戦局は泥沼化していきました。後に満州に戻った私は、時代の怒濤のまっただ中に巻き込まれることになるのです・・・。

(制作補助ヤムヤム編集室)

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私の夢

第三部 「ラプソディ」 東京で 昭和12年4月~15年3月

3-1 私の夢

小さい頃からの私の夢は、学校の先生になることでした。

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当時女の人の職業といったら、学校の先生か看護婦さんでした。福島にいた頃の私は、女学校を出て、師範に行って小学校の先生になりたいと思っていました。

女学校を出る頃は、体育の先生になろうと思うようになりました。そのために体育学校に進学したかったのですが、母の反対にあいました。

母は女学校を卒業したら、すぐに力兄さんと結婚させたかったのでしょう。
その母を説得してくれたのは、力兄さんでした。力兄さんは、「女の子でも資格が必要だ」と両親に私の進学を頼んでくれたのでした。

 

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この時、26~27歳だった力兄さんは、早稲田の政経学部を卒業し両親と暮らしていました。(
中央が力兄さん)

兄の説得にもかかわらず、母は「体育学校だけはだめ。」と言って、がんとして聞き入れませんでした。それで、私は実践女子専門学校の技芸科に進学することにしました。

技芸科は裁縫・編み物・手芸一般についての中等教員の免状がとれるので、私は家庭科の先生になろうと決めたのです。

(制作補助ヤムヤム編集室)

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祝砲(昭和8年12月23日)

第二部 福島から満州へ(昭和8年12月~12年3月)

2-1 祝砲(8年12月23日)

昭和6年に始まった満州事変は翌7年の満州国建国宣言となり、大勢の日本人が満州に移り住み始めました。
福島の国鉄に勤めていた父(松)は、こうした時代の流れの中で、満鉄に勤務することになり、私たち家族は、満州に移り住むことになりました。

私たちは、昭和8年12月23日に満州に着きました。
満州に着いた私たちを迎えたのは、祝砲と花火と歓声でした。

実はこの日、12月23日、昭和天皇に初めての皇太子が誕生したというので、満州は歓喜に包まれていたのでした。
私の満州での生活は、祝砲と共に始まったのでした。

06 始めて見る満州でしたが、特別遠い所へ来たという感じはありませんでした。雪に被われた満州が故郷の福島と似ていたからかもしれません。

翌年の昭和9年3月には、満州国に帝政が実施されました。
一方、私たちの去った東北地方は、昭和9年の大凶作で、欠食児童や娘の身売りなどが続出していたことを、このときの私は知りませんでした。

(制作補助ヤムヤム編集室)

豆知識↓

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